楽喜舎日録

2013年1月から始めた「楽喜舎」(らっきしゃ)の日録。日々の暮らしからみえてくるものを発信します。日々実践!

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)

「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」何んとも長いタイトルである。タイトルを見た途端に、「当たり前だ。経済成長がなければ私たちは豊かになれない。だって、おカネがないと生きてゆけないじゃないか。」という反応が「常識」的であろう。「いや、経済成長がなくても私たちは豊かになれるよ」という人もいるだろうが、そんな人たちは理想主義者だと言われてしまうかもしれない。


でも、ダグラス氏は言うのだ。
『「常識」は必ず変わる』


たとえば、私の現場に近いところでいえば、1960年代の農業基本法は大規模農業を推進し、2000年の新基本法では農村の役割を見直し、現在も大規模農業化を推進しつつも、有機農業推進法ができたり、都市農村交流が農水省の政策になったり、忘れようとしていた農村の存在が大きくクローズアップされているのだ。今、都市農村交流事業は「常識」になっているではないか。


誰でも考えてみればわかるとおり、経済発展は人間の幸福をもたらさない。世界第2位の経済大国のわが国で、年間の自殺者数は3万人を超え、非正規労働者は解雇され路頭に迷っている。
ダグラス氏の言葉を借りれば、『経済発展は貧富の差をなくすことではなくて、貧困を利益が取れるかたちに作り直す「貧困の合理化」の構造』である。最近報道されている「貧困ビジネス」などはこの最先端を行っているものだと思う。


昨年からの金融危機を見ていても、経済発展が永続的に続くことはない。では、どうすればよいのか。
『経済成長を続けて豊かな社会を求めるのではなく、経済成長なしで、ゼロ成長のままどうやって豊かな社会をつくるか、という別の問題提起、問題の設定に変える…ゼロになったことを歴史的なきっかけにする』というのだ。
この考えは、豊かさの質を変えてゆくことにつながっていく。
競争社会を支える基本的な感情は恐怖である。おカネがなければ生きてゆけないんじゃないか、病気でも無理して働かないと解雇されるんじゃないかなどの恐怖である。この恐怖を鎮めるためには、ある程度安定した社会的措置が必要である。
その社会的措置をとるためにも、「発展」という言葉に変えて「対抗発展」という言葉が必要だという。
「対抗発展」とは、1つには、減らす発展・・・エネルギー消費を減らしたり、経済活動に費やす時間を減らしたりということ、もう1つは、経済以外のものを発展させる・・・経済活動以外の人間の活動を発展させる、市場以外のあらゆる楽しみ、文化、行動などを発展させる、という二つの意味を持つ。
もっと簡単にいえば、対抗発展は、快楽主義である。消費による快楽ではなく、われわれ人間の快楽、楽しさ、幸福、幸せを感じる能力、それらを発展させる快楽主義である。物を少しずつ減らして、その代わり、物がなくても平気な人間になる。つまり、減らすことが逆に人間の能力を発展させるのである。


この考えに、共感するところがある。
鴨川に来て以来、自分の手でやることが少しずつ増えてきた。半分仕事だけれども、ついこの前はみそづくりをしたり、銀杏の木の選定をしたり、私は昔よりも自分でできることが徐々にではあるが増えてきている。
手仕事の実感、自分にもできるという感覚は実存の感覚を増すのである。


一足飛びに状況は変わらなくても、変えるものとして現実を認識することこそがたゆまぬあゆみの原動力となるのだ。