楽喜舎日録

2013年1月から始めた「楽喜舎」(らっきしゃ)の日録。日々の暮らしからみえてくるものを発信します。日々実践!

1か月を迎えて

カフェで資料を検討して、車に乗り込んでエンジンをかけようとしたその時、
大きな揺れが襲ってきた。すぐ近くで農作業をしていた農家さんは田んぼにへたり込んでいた。
「これは大きな地震が起きた」と、急いで車に乗り込んで状況確認へ向かう。
ラジオで確認すると、宮城県沖で大地震が起きたとのこと。


脳裏には、16年前の阪神大震災での体験がよぎる。あの時は、電気はすぐに復旧したものの、
水道とガスが止まってしまった。急いで自宅に連絡して、風呂に水をためるように伝える。
16年前はマンション住まいで、食べるものもなかったのだが、
今回はコメ、みそ、しょうゆが一年分あるので、その面では安心。
自給自足とまではいかないまでも、最低限の食料は確保できている。
しかし、こんな時には集落の自家水道組合から脱会しているのが残念。
市の水道だけに頼っている現実がある。


11日は偶然にも、昔からの友人がNZから帰ってきて、我が家に宿泊する予定だった。
彼は茂原で地震にあったが、状況も不明の中ヒッチハイクで御宿までやってきた。
津波警報が出ていて、かなり怖かったが、えいままよ、とお迎えに行く。
3年ぶりの再会を、ろうそくの中で喜び合った。


翌日からは、南房総各地の被災状況を聞いてまわることと、
twitterやラジオを通しての情報収集を病的に続けた。
ただ、茫然としていた。
東京電力原発事故が、それに輪をかけた。
不安は高まってくるし、デマは飛び交うし。
自分の無力さを痛感していた。ろくな動きができなかった。


そんなとき、ある人から、「旧大山小を避難所にしてはどうか」と声をかけられた。
最初聞いたときは、すぐに動けなかった。
避難所を作るって、そんなこと実現できるんだろうか?という思いが先に立った。


相談するつもりで声をかけたら、なんとその日に「今から動こう」と決まってしまった。
それが3月17日。それから3日後の3月20日には、地元から、南房総から、東京千葉から
約80人の人が集まって一気に準備作業を始めた。
今回の避難所を、「鴨川市大山支援村〜がんばろう東北」と名づけることも決まった。
http://hinansho.awanowa.jp/
また、地域の顔役の方が代表となることを承諾してくれた。
それから、3月26日、27日と大規模に作業をし、その間地域へのあいさつ回りも行い、
28日からは事務局を毎日開けることにした。


そして、今日に至る。
まだ避難者はいらっしゃってないのだけど、
私たちは今日も準備を進めている。


いついらっしゃってもいいように、なるべくゆったりできる空間を作ろうとしている。
営業、というわけではないけれど、一度鴨川を見てもらおう、
避難所でのストレスフルな暮らしから少し骨休みしてもらおう、という
コンパクトなツアーも企画している。


みんな時間の都合をつけて、ほぼ毎日ミーティングを行っている。
アイディアが出れば、それを前向きに議論し、実現する方向に持ってゆく。
こんなときに不謹慎な、といわれるかもしれないが、
そのスピードは驚くばかりで、気持ちよささえ感じる。
心が折れそうになるときもあるが、真摯な人々が周りにいるお陰で、
また立ちあがっていける。
ともに進めている人々に本当に感謝だ。


時が過ぎて、今日は娘が5歳を迎えた。
予定より一カ月早く生まれてNICUに入っていた彼女も、
今では外を元気に走り回り、よくしゃべる。
今日から、バスで幼稚園に通うようになった。
子どもの成長する姿を見るたびに、
自分も元気に暮らしてゆこうと思うのだった。


鴨川市大山支援村〜がんばろう東北http://hinansho.awanowa.jp/
ご覧ください。