楽喜舎日録

2013年1月から始めた「楽喜舎」(らっきしゃ)の日録。日々の暮らしからみえてくるものを発信します。日々実践!

21世紀は「市」から始まる

8月25日に、結城登美雄さんの講演がある。

結城さんが何を考えてどう動いているのか、

その片鱗を結城さんの文章から探ってみたい。




まずは、 1999年5月増刊 現代農業 「自給ルネッサンス 縄文・江戸・21世紀」

http://www.ruralnet.or.jp/zoukan/kinous_m.htm#m5

から行ってみよう。



秋田県五城目町という街で開かれる市、直売所についての考察である。



東北を旅していて、”にぎわいと活気、笑顔とやさしさに出会える場所”が

市であり、直売所である。

その”市や直売所のにぎわいの中に隠されているものとは何か”と

問いを立てる。



わが国においては、農業は、”何年勤めても給料が変わらないばかりか、

年々下落していくような収入”の中で、農民たちは単一作物の栽培に

日を費やすことになる。

その結果、"この国の農政は農民から収入だけでなく

作物を育てる楽しみや喜びさえも奪っていたのだ"といえる。



市や直売所の機能としては、

”まず自分たちのために育てる。その余剰を青空市に出す。

だから時に市に品不足が生じる。有機無農薬栽培、旬のもの中心、

家族が食べるものと同じだから当然のこと。”

”しかし、なぜ今、市に品物がないのかを知ってもらうことも市の役割だと

青空市のばあちゃんたちは平然としている”

”自然と畑と農産物生産の関係をやさしくていねいに説明する場ーそれが市の存在理由”

だという。

”消費者もいっしょに変わらなければ、いつまでもムリする農業からぬけ出せないし、

それが消費者にとっても利益にならないという考え。

市はすでにモノのやりとりを超えて、お互いの暮らし方、生き方、考え方を共有する場ですらある。”



1999年に、すでにこういう場所ができていたとは知らなかった。

私は当時西宮に住んでおり、野菜はスーパーで買うのが当たり前だったし、

農業にも興味は持っていなかった。

あくまでも、私は「商品」を買っていたのだ。



結城さんは、「市とは何か」という問いにこう答える。



”いつのまにか私たちの地域が失っていた

さまざまな大切なものの回復の場なのではないか。”



”かつて農山漁村には「結」や「講」という自分たちの生活条件を整えるために、

個人や家族の力をもってしても手に余る課題に対して、共同で解決するしくみがあった。”

”市や直売所の活動も、従来の枠組みでは解決できない領域への、

おのずからなる取り組みであるとはいえないか。

そして、それぞれの小さな営みと力を合流させることで、

これまで越えがたいと思われた農の営みに活力がよみがえりはじめている。”

”市から何かが始まるのではないかーそんな予感がする。

交易と交流の最も初源的な市や直売所がはらむ可能性は、決して小さくはない。

その可能性はまだまだ隠されている。その一つ一つの発見と確認が、

今日の閉塞した状況を切りひらいていくと思いたい。”



引用がだいぶ長くなってしまったが、

伝統的に開かれていた市と、自然発生的に始まった直売所が

多くの農村を元気付けるきっかけになったことがわかる。



結城さんがここで出した問題点、可能性は

2007年になって大きく開かれ始めている。

生活、という観点から時代が大きく変わっているような気がしている。

帰農塾に参加する方たちも、「暮らし方」を考える人たちが

増えてきているのだ。

きっと、みんながこれまでの来し方を振り返っているのだろう。



思想ではなく、生活を中心に考えていくべきだ。