一年分の醤油が完成!
朝のうちに、昨日行われた千葉県立高校入試の英国社の3科目を解く。この日は、自分が1年間やってきたことがどう通用するのか試される日。少しだけ新傾向の問題が出題されたので、受験生たちが戸惑ったのではないかと思う。千葉県は全般的に基礎的な知識を駆使して考えさせる良問が多く、解きがいがある。今回の試験が、また来年度の方針を確認するきっかけとなるのだ。
いそいで問題を解き終えて、醤油しぼりに行く。
今日は4月に仕込んだ醤油をみんなで搾る日なのだ。
もろみにお湯を混ぜて延ばしていく。
袋にもろみを詰めて万力をかけてしぼっていく。
火入れをして発酵を止める。
灰汁を取っているのは絞りの全般を見てくれる仲間。醤油組合の中で、しぼりの責任者をやれるメンバーを決めていて、その人が流れを見てくれるシステムになっている。
醤油しぼり自体も楽しいのだが、みんなが楽しみにしているのはしぼりたての醤油で味付けをする料理。
みんなで一品持ち寄るようになっていて、
今年は七輪を3台出して、焼き物中心で行なった。
もちろん木炭は、釜沼木炭生産組合で焼いたもの!
思い出せるだけ列挙してみよう。
もち、焼きおにぎり(品種:プリンセスサリー)、フキ味噌おにぎり、生わかめ(岩井海岸)、しいたけ、アジの刺身、なめろう、焼き鳥、ちくわ、とうふ、厚揚げ、手作りさつまあげ、胡麻豆腐、うどん、すまし汁、いちごなどなど。
みんなで集めると、本能に豪華な食事になる。一品を完成させてくる人と、醤油に合わせた料理を持ってきてくれる人といろいろで、面白い。
一年に一度しかないイベントだ。1日ゆっくりかけて、10組くらいの一年分の醤油ができるのだ。
我が家に遊びにきてくれたらご馳走しますよ〜。
生活は続く
民泊の余韻に浸る間も無く、今朝から炭焼き作業開始。この冬2回目だが、実は今回がこの冬最後になってしまう。残念だけど、やむを得ない。二回だけだけど、お互いに時間を都合つけて出てきたんだし、やれるところで続けて行かないと、嫌になってしまえば元も子もない。
昨年末に焼いた炭の窯開け!
焼き時間は、予定通り行ったので、楽しみにしていたが、若干燃えてしまった量が多いかもしれない。
今日は新しい参加者が2人きてくれたので、作業がどんどん進んだ。
木炭を出しているところ。
木炭を出してから、今度はこの間準備してきた炭材を入れる。
釜沼木炭生産組合を長老方から受け継いで、丸3年が過ぎようとしている。
どんどん生産しているわけではないが、
田んぼの陰になっている木を伐ったら炭にできるので、木を無駄にしないで済むようになった。
木を見る目も、少しずつ養えたように思う。
農村で育ったわけではないので、知らないことばかり。でも、1つ1つ後付けで学んでいる。後付けであっても、学べることができるのはありがたい。それはいつか、繋いで行くものになるだろうから。
この種がいつか実を結ぶときがくる
出発前に、全体写真を撮ってもらった。
昨日の料理で、ぐっと距離が近くなった私たち。
今日のFarewell Party(歓送会)で、パキスタンの参加者が知っていた「カントリーロード」(日本語版)を急遽歌うことになり、今まであまり話さなかった子たちとも一挙に話すようになった。
やはり、食と音楽は人を繋げるのだと思う。
リズムが、人の心をかきたてるのかもしれない。
私も、弾いたこともないこの歌を、あわててギターで練習することになってしまった。でも、歌うことも弾くことも好きだし、何より参加者の人が喜んでくれているのが一番嬉しい。
そんなわけで、昨晩ギター練習をして、何年かぶりに弦を張り替えて、今日に臨んだ。
会場は、旧大山小体育館なので、だだっ広く、あまり音が聞こえないのだが、最終的には自分たちが楽しければいいと開き直り、みんなで大きな声で歌った。
各国の参加者も、それぞれの民族衣装を身にまとって、踊りや歌を披露してくれた。全部で8カ国ほどあっただろうか。
市役所でお世話をしてくださる女性が、「海外に行かなくても向こうが来てくれていろいろ見れるのは楽しいね」と言っていて、同感した。
各国で所作に特徴があり、なかなか見れないものだ。ところで、日本人が海外で日本的なことをやれと言われたら一体どうすればいいのだろう?盆踊りか?日本舞踊はそんな簡単にはできないしな。道徳に点数をつけるより、日本人の身体所作を学ぶ方が先決な気がする。
それはそうとして、いよいよお別れのときがきた。もう2度と会えないかもしれないが、私が会いに行けば会えるかもしれないとう関係が始まる。
もし今まできてくれた人の元を訪ねるとすれば、えらく大変なことになる。でも、いつか叶えたいと思っている。
それには、今ここで、小さくても着実な活動を、大きな希望を持って続けていくことが大切なのだと信じている。
母国の料理に勝るものなし
民泊の2日目。
今日の活動の前に少し時間があったので、パキスタン学生の引率者の女性と英語教育について話す。
パキスタンでも、あまり英語を使う機会がないとのことだが、学校によっては高いレベルの教育を提供しているとのこと。話すのは簡単だけど、読んだり書いたりするのは難しいと言っていた。
私の場合は、大学入試はクリアした程度の英語力だったのだけど、ここ何年かの塾講師で中高生の基本的な英文法は身についたように思うのだが、実際に話し始めてみると、必要な単語が出てこずにしどろもどろになることは今もそんなに変わらない。もっと勉強が必要だと痛感する。それにしても、普段使わない言葉を使うと、本当に疲れる。でも、疲れた以上に面白い。
午後に帰ってくると、かなりみんな疲れていたようだったけど、家に帰って来たような様子で少し安心したような顔が見えるのは嬉しい。
この地域の郷土料理である祭り寿司を作ると体験を行なった。こちらは、義母が先生。
みんな真剣な表情で見ている。
実は、私も初めてじっくり制作過程をみた。
意外と、面白かった。
できた時のみんなの表情は嬉しそうだった。
そのあとは、恒例になった母国の料理を作ろう体験。今回は参加者が多いので、一緒にスーパーに行くことができないので、こちらで日本食を準備しようと思っていると、なんと、スリランカとパキスタンからスパイスなど食材を持参して来てくれていた。では、やりましょう!ということで大にぎわい。
女子学生が8人と、各国の引率者の女性3人が来ていて、引率者の方はみんな既婚である。料理になると俄然張り切りだした。
女子学生たちに指示を出して、自分もガンガン野菜を切る。
手前に見えているのはスリランカのチリソース。
タマネギとニンニクに、唐辛子粉とライムが入っているもの。
その奥はマグロのカレー。
こちらはパキスタンのアチャリという料理。
こちらは、レトルトパックを持参してきていた。
これもパキスタンの料理で、英名をスプリングロールと言っていた。中にほうれん草、人参、それにキャベツを炒めて巻いてある。
一番すごいのがこれ。
スリランカのミルクライス。
コメもスリランカから持参。米粒がとても小さかった。
コメの分量に対して2倍の水を入れて炊飯器に投入。蒸らしの状態で、ココナッツパウダーを水に溶いて、塩を入れたものを投入し、再加熱。
大きな皿にいっぱいにペタペタと形作っていた。
そして、実食。
スパイスが効いた料理が好きな私には最高だった。
それ以上に驚いたのは、参加者の食欲。
今まで日本でしんどかったんだろうなというのがわかるほど、すごく楽しそうにモリモリ食べていたのだ。この味は、やはり日本にはない。
しかもみんな、母国でやるように、手で食べていたのだ。あまりに楽しそうだったので、私も初めて手で食べることに挑戦。
食べ方を教えてもらって、やってみた。
ミルクライスは、インディカ米だし、とても水分が多いので、指にベタつかない。しかも、おかずをそんなに入れなくてもスパイスが効いていて、それを指で混ぜるので、たくさんお米を食べることができる。さらに、手でたべると、なんか現地の人に近づいたような錯覚すら覚えるほど、衝撃的だった。
なかなか日本では体験できないことだ。
みんなの表情を見ていると、本当に満足しているようだった。日本に関心があってきていて、日本の家に気を使って過ごしているのはわかっていたのだが、楽しそうに食べている様子を見ると本当に作ってもらってよかったと思う。我が家の子供達にはまだ口に合うものは少ないんだけど、私には毎回とても嬉しい味だ。
民泊の中でも、この料理体験はやはり特別なものなのだと思う。お互いの距離が近づいたような感じがする。11人もいると、話をしない子も出てくるんだけど、料理を作っているといろいろ話をするものだ。
楽ばかりではないけど、こんな美味しさを味わえるなんて、本当に感謝の1日であった。
明日の朝は、もうお別れパーティーの日だ。
本日から3ヶ国訪問。
今日は、勝浦で行われた千葉自然学校のイベントで、パネリストとして農家民泊の活動についてお話ししてきた。参加者の方はとても熱心な方が多く、少しでもお役に立てていればよかったな、と思う。
一緒に行った市役所のMさんと、往復の車中でいろんな話ができて、今後の民泊組合の目指す方向も見えてきて、よかった。
午後からは、海外からのお客様の受け入れ。
今回は、パキスタン、ネパール、そしてスリランカの3ヶ国から11名の女性が訪れた。
日本語を勉強している人は1人しかおらず、英語での会話のみ。普段塾で偉そうに英語を教えているのに、言葉が未だにうまく出てこず、「察し合い」の英会話になってしまう。最低限の意思疎通はできていると思うのだけど。
今日で日本に来て6日目の方々で、ずいぶん疲れているはずなのに、笑顔を絶やさず私たちと話そうとしてくれて、それだけで嬉しい。
私たちも、この二日間でなんとか楽しい思い出を残して欲しいと思って受け入れている。
農家民泊も営業なのだけど、心に残る体験ができればいいなと思っている。そのために、まだまだ工夫の余地がある。何にせよ、工夫できる余地があることは楽しいことだ。そこに、進歩の目があるから。
明日は、なんと、3ヶ国の料理が食べられるようだ。自国からスパイス持参で、かなり気合が入っていた。楽しみだ!
増刊現代農業、藤本敏夫記念館にあります!
今日は、久々にしっかりとした雨の降った1日だった。朝一で少しだけ農業用ハウスの建築を行なった。
王国にとっては久しぶりのハウスだ。
3棟目のハウスになる。
これができると、農業機械など、様々なものを置けるようになる。
雨が降ってきて、屋外での作業が厳しくなったので、藤本敏夫記念館の整理を始めた。
すると、久しぶりに見た本たちに出会った。
そう、それが写真にあげた増刊現代農業(農文協刊)である。
現在は、「季刊地域」という雑誌に変わっているのだが、私にとって、この増刊現代農業には大きな刺激を受け、転換をもたらしたのであった。
今から6年ほど前まで自然王国では「里山帰農塾」という2泊3日のイベントを行なっていた。各界から講師をお招きする座学と、農業体験を行う実習が組み合わせられたイベントだ。
その帰農塾に講師としてきてくださっていたのが、当時増刊現代農業の編集長をしていらした甲斐良治さんだ。
私は、スタッフとしてこのイベントに携わりながら、甲斐さんによって蒙を啓かれたと言っても過言ではない。
自然王国に来るまで、「地域づくり」のことは考えたことがなく、社会問題はどこか自分の住んでいる地域から離れた場所で起こっているかのように考えていた。
ところが、王国で暮らし、甲斐さんの話を聞く中で、本当に考えて、行わなければならないのは、地域にないものを探すのではなく、あるものを探していくこと、村の暮らしを作っていくことではないか、と考えるようになったのだ。
増刊現代農業には、全国で地域づくりを行なっている人々の活動が記されていて、同じ思いを抱く人々がこれほどたくさんいるのだ、と覆いに勇気づけられた。背表紙のタイトルを見ただけで、あの頃あったことを鮮やかに思い出す。
あの時感じた思いは、今も静かに、確実に継続していて、それがいまの私の活動に繋がっていることを実感している。
人に歴史あり
我が家には、来月で満96歳になる義祖母がいる。
3年前に脳梗塞を発症し、現在は車椅子生活で、意思疎通も困難な状態になっている。
今日、本棚を片付けているとき、写真にあげた冊子を見つけた。昭和57年の発行だ。
何気なくめくると、会長挨拶に義祖母の名が。
これは、と思い捨てずにとっておいて、時間があるときに読み始めてみた。
手が止まった箇所がある。
それは、私の住む佐野集落に簡易水道を入れた時の話を義祖母が書いているのを見つけた時だ。
義祖母は現在の南房総市白浜に育ち、昭和26年にここに嫁してきて、学校教員として勤めていた。
少し長いが、当時の状況がよくわかる箇所を引用する。
私は昭和26年4月に大山の住民となり職業婦人としての生活が始まりました。
一番苦しかったことは、家に帰ってからの水くみでした。井戸からつるべで、バケツに水を汲んで両手に下げ、30メートルくらい離れた台所の水がめに5回くらい、風呂に15回くらい運ばなければなりません。その他、洗濯の水くみ。水がめ一杯の水を1日大事に使ったものです。
昭和27年に、井戸にガチャポンプを取りつけてもらいました。やはり運ぶのが大変でした。
昭和29年11月に、庇の中にポンプを据え付け、そこまで配管して家の中でポンプを押せば風呂や水がめに水が入るようにしてくれました。
家族全員大喜びでした。しかし、深井戸ではなく溜り水のような井戸のため、しばらく晴天が続くと枯れてしまう状況が夏になると繰り返されました。田谷沢へ洗濯をしに行ったり、近所にあるよく出る井戸にもらい水に行ったり、苦労しました。
このあと話は、昭和32年に集落に簡易水道を入れる話がまとまり、みんなで引いたところに続く。
そこも感動的なのだが、義祖母が嫁いできて、仕事を終えてから苦労していた様子が偲ばれて、たまらない気持ちになった。
簡易水道が引かれてからの様子は、
現在ではどこの家庭でも台所が改善され、水道が取りつけられ生活を明るく楽しいものにしています。
とある。
義祖母の気持ちがよく表れている一文だ。
この文章をもっと前に読んでいれば、義祖母にいろんな話を聞けたのだが、今となっては話もできない。しかし、ここに義祖母の歴史が記されている。
その歴史を受け継いで、今私もここに暮らしているのだな。
義祖母が水汲みに苦労した井戸は、今は電動ポンプがつけられて、菜園の水やりに使われている。集落全員で引いた簡易水道は、管理者が少なくなってしまい、今は一部の村人が管理していて、我が家は使っていない。改めて、水の大切さを感じる。
ちなみに、昭和57年当時はまだこの地区には市営水道がなかったらしく、あと1〜2年でこちらにも市営水道が引かれる予定とあった。ずいぶん先まで水道が来なかったのだ、と驚いた。
この冊子には、当時の女性たちの暮らしや思いが綴られていて、大山の歴史としても素晴らしい価値があると思う。大切に保管しておこう。